マンモス展示の真実物語

=真実だけが魂を打つ=



マンモス君、愛知万博へようこそ!!
マンモス君、俺、俺、いや、私、玉村ですよ。

世界マンモス協会会長 玉村富男



私がマンモスの提案者と告げシトイロフ ロシア・サハ共和国大統領と
握手を交わす玉村富男氏。


ロシア大使館でのパーティ会場で、愛知万博事務総長(左)、福川マンモス発掘展示委員長(中)、
玉村氏にマンモス情報を提供した椛コ役場 林社長(右) 

【撮影:玉村富男】

「誰がマンモスの提案者か知りたかったんです。ず〜っと長い間、気にかかり、気になっていたんですよ。そうですか、玉村さんがマンモス展示の発案者で提案者とは知りませんでした。ご苦労様でした。有難うございました。」

秘められた真実の愛を知った中村事務総長、正式には、財団法人2005年日本国際博覧会協会事務総長は、このように感激して解説する玉村富男に語った。

昨年、2005年5月26日午後6時、東京狸穴のロシア連邦大使館で、ロシア連邦サハ共和国から来日したサハ共和国シトイロフ大統領一行のレセプションパーティが、約250名の参加者のもと開催された。
A.P.ロシュコフ駐日ロシア連邦特命全権大使の挨拶に続き、シトイロフ サハ共和国大統領がスピーチを行った。
「愛知万博におけるサハ共和国のマンモス展示が、ロシア連邦ならびにサハ共和国と日本との友好親善に大きく貢献することに大いなる喜びと誇りを感じていることを、尊敬する日本国民に伝えるため来日しました。」

マンモスの古里であるロシア連邦サハ共和国は、総面積が310万平方Kmである。この広大な面積は、あのインド全体よりも広いという。しかもインドは11億人の人口に対し、サハ共和国全体の人口は僅か100万人である。
しかも、非常に厳しい大陸性気候で、冬は長くマイマス60℃という苛酷な温度になる一方、夏は逆にプラス45℃という熱さに達する。つまり、冬期と夏期の気温差が100℃以上になる土地がサハ共和国である。そのサハ共和国にマンモスは棲息していたのである。

シトイロフ大統領一行は、翌日、5月27日、中村事務総長と福川マンモス発掘・展示委員長の案内で愛知に向かって新幹線で移動し、準備・建設中の会場を訪れた。その後、記者会見が開催された。
シトイロフ大統領は記者会見の席上で記者に対し、マンモス頭部の写真を初公開し、翌28日の各紙は一斉にこのマンモスの頭部の写真を一頁に大報道した。

この頭部は、2002年11月ヤクーツクから北方1200kmの北海に近い永久凍土で発見されたものである。
1万8千年前に生きていたマンモスの頭部で、肉も皮も毛もついているもので、日本国民を感動させた。

1万8千年前のマンモスが発見されたのはユカギル村で、村の名前から「ユカギル・マンモス」と正式に命名された。キバの長さが3.2mあり、立派な大人のマンモスの雄であることが判明した。1900年にも、肉付きのマンモスが、肉が腐敗し強烈な異臭を周囲に放ち、ニコライ皇帝の皇后は近寄らなかったと広く伝えられている。

それから100年後、肉付きのマンモスの頭部は科学の進歩を裏付けるように、ヤクーツクの研究所で-45℃で冷凍保存され、現在愛知万博会場では-15℃の特別な部屋に安置されている。

今から丁度35年前、6400万人の入場者、つまり日本国民の二人に一人が入場した計算になる大阪万博が開催された。「テーマ」は「進歩と調和」だったが「辛抱と調和」と揶揄される程、参加者は人を見に行った。ディズニーランドも、ハウステンボスも、スペイン村も、サンリオピューロランドも、ユニバーサルスタジオも、花博も、恐竜展も何もない1970年時代の大阪万博だった。まして、一年中博覧会の常設館となっている「幕張メッセ」も「東京ビッグサイト」も「ポートアイランド」も無かった時代の大阪万博だったからこそ6400万人もの日本国民が入場したのである。

大阪万博の心棒、いや超目玉は、前年の1969年アメリカが月から持ち帰った「月の石」だった。

愛知万博は3月25日から9月25日の180日間開催され、一日8万1千人の入場者を見込んでいる。期間中に1千5百万人の入場者数を見込んでいるのである。大阪万博の23%だ。しかし多様化時代の入場者数獲得をどうするかは2000年に発足した愛知万博委員会の頭痛の種だった。

大阪万博の心棒は「月の石」だった。愛知万博は別名環境博と呼ばれる通り、環境がテーマである。
愛知万博の初代事務総長は、元通産審議官の黒田 眞氏だった。初代の黒田眞事務総長は天然記念物の「オオタカ」の巣が会場予定地から発見され、環境博なのに環境を破壊するのか、万博を中止しろの大合唱があがり苦労された。その黒田初代事務総長や尾身前科学技術庁長官にマンモス探索費10億円を出して欲しい。我々はマンモスを愛知万博の超目玉にしたい。1万年前に絶滅したマンモスこそ、環境博に最も相応しいから、10億円の調査費、探索費、発掘費を出して欲しいと懇願した。
関係者は異口同音に「いるかいないか分からない、出るかどうか分からない、そんなもんに国の大事な10億円という大金を出せるか。」という返事だった。

一方で、初期の愛知万博委員会では、愛知万博つまり環境博に最も相応しい、大阪万博の「月の石」に匹敵する超目玉探しを真剣に議論しつづけていた。
その委員の中にトヨタグループを代表する大物委員の存在があった。堀孝信委員だ。
堀孝信委員はトヨタグループの代表である。よって発言力もあった。堀孝信委員はトヨタグループのシンクタンク、調査・研究会社のテクノバ社の社長だったを業務していた。

トヨタグループのシンクタンクで調査・研究会社ならば、きっと環境博に適切な超目玉探しをしてくれるだろうという委員会の意向で、超目玉探しを命ぜられたのである。

名古屋を中心にした環境博に相応しい、超目玉の公募もしたこともあったが、2005年2月まで愛知万博の開催すら知らない人にアイディアがある訳がなかった。

堀社長は、その時、報酬を支払っていなかったテクノバ社の顧問、玉村富男に相談した。
玉村は、700万年前、マンモスと人間が同時にアフリカに誕生してきたこと、人間がマンモスの肉を食べて絶滅させたことから、「マンモスが最も環境博にふさわしい。これ以外の環境博の目玉は考えられない。」と正式回答した。
堀委員は玉村の名前を伏せて委員会にマンモスを提案した。やがて、愛知万博協会の中にマンモス発掘・展示委員会が設置された。委員長にはグローバルハウス館館長の福川伸次氏が就任した。堀氏はマンモス提案の功績により、マンモス発掘・展示委員会事務局長に就任した。
堀氏はその後、数回マンモスの古里、サハ共和国を訪問してきたことを愛知万博の委員をやめてから初めて玉村に語った。井戸を掘った玉村は悔しい気持ちで、堀 前マンモス委員会事務局長の口から出る出張物語を聞いた。

その後、初代事務総長が坂本第二代事務総長に代わり、更に中村第三代事務総長へとバトンタッチされて時間は過ぎた。

堀 前愛知万博委員が、マンモス展示提案者は玉村だと発言していないのだから、坂本第二代事務総長は勿論のこと、玉村のことは知る訳が無いのは当然である。
委員の誰もが知る訳もなく、マンモスと同じように凍土の中の物語になってしまったのである。
そして、第三代中村利雄事務総長に「誰がマンモスの提案者か知りたかった。ず〜っと長い間気になっていました。そうですか、玉村さんがマンモス展示の提案者でしたか。いや〜今の今まで知りませんでした。」と云わしめるのであった。